トーマス・マン著「トニオ・クレーゲル」

数年前のことですが、一人で農作業をしているとき次のような思いに駆られることがたまにありました。
「俺が一人で汗をかいて苦労しているのに、女房はお茶の一つも持ってこないのはどういうことだ」
「正午を回ってもまだ家に帰らず作業をしている俺を、どうして女房は心配して見に来てくれないのだ」
今では、3人目の子供も生まれて妻の苦労もわかるので、このように考えることはあきらめ、なくなりましたが、そういう折に思い出したのが、10代の後半に読んだ「トニオ・クレーゲル」です。

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

「トニオ・クレーゲル」のあらすじ
http://www7.big.or.jp/~ynisihir/html/Y622_MAGDALENE.htm

トニオ・クレーゲルは裕福なドイツ商人の父と、イタリア人で音楽に秀でた母との間に生まれた。彼は常に、父のように市民として生きるか、母のように芸術家として生きるかの間で揺れ動く。少年の時、美しく快活な友人ハンスを愛し、その後やはり快活な金髪の少女インゲを愛する。彼に思いを寄せるマグダレーナとは精神的に理解しあえるが、彼の心は、報いられないままインゲに向いていた。これは、健全な市民生活に憧れるトニオの生き方の現われでもあった。

月日が流れ、作家として名をなしたトニオはミュンヘンにいた。そこで、女友達の画家リザヴェータ・イワーノブナと芸術論をかわす。トニオが、自分の作品を読んでくれるのはいつも、悩みと憧れをもった、いわばよくころびがちな人たちであって、精神性を必要としない快活な金髪の人たちはひとりもいない、と話す。リザヴェータ・イワーノブナは、そんな彼自身を、横道にそれた俗人だと言う。

やがてトニオは故郷を経てデンマークへの旅に出る。故郷にはもはや知る人もなく、彼は詐欺師と間違えられて逮捕されそうにすらなる。デンマークで滞在した旅館に、ある日、集団の客が現れる。その中に、ハンスとインゲボルグそっくりの兄妹がいて、トニオは動揺する。舞踏会が始まる。すると、一人のおとなしそうな少女が転んで倒れる。トニオは少女を抱き起こしてやり、その場を離れた。

トニオはリザヴェータ・イワーノブナに手紙を書き送る。自分はこれからもっとよい作品を作るであろう。自分の読者のころびがちな人々に、自分は深い愛着を寄せている。けれども、自分の本当の憧れは金髪の快活な人たちのものであり、その人たちへの愛こそが自分の作品を書く力となる、というのがその内容であった。

進学高校に行きながら大学受験に目的を見いだせずに大学進学を拒否。半年間ぶらぶらした後親の薦めで就職した私は、社会人(サラリーマン)としての人生にも疑問を持ちつつ、さりとてそれを打破する第3の生き方も見いだせずに、葛藤の日々を送ることになりました。

バブル経済に向かいつつある当時の社会状況の中で、昼間は会社員として過ごし、夜は自分探しの作詞・作曲活動に没頭する自分の姿を、「トニオ・クレーゲル」に重ねあわせて共感するのに十分な作品だったと思います。

作品の中でトニオ・クレーゲルは、快活な金髪の少女インゲに声をかけられて、「私たちの中に入っていらっしゃいよ」と誘われることを夢想しますが、実際にはそんなことはありえないという現実に葛藤を覚えます。それは、内向的な芸術思考の少数派の叶わぬ願いであり、同時に甘えであるのかもしれません。

しかし、この作品が今でも読まれ続けているとしたら、それは、私のような特殊な事情で共感するだけのものではなく、もっと普遍的なテーマがそこに流れているといえるでしょう。これについて、アマゾンの書評に参考になるものがあったので、引用します。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4102022015/customer-reviews/ref=cm_cr_dp_2_1/250-4391477-6921013
芸術家の孤独を知る喜び, 2004/11/05
レビュアー: logothique (プロフィールを見る)   京都市左京区
私は芸術を鑑賞するのは好きだが、トニオのように自分でヴァイオリンを弾くこともできないし、詩を書くわけでもない。それにもかかわらず、彼の孤独は痛いほどよく分かる。それはまぎれもない芸術家の孤独だ。芸術家でない者がこの孤独を共有することができるのは、それがきっとすべての人間に共通のものだからだろう。人は誰でも程度の差はあれ芸術家なのだ。それは、この本が出版後100年経った今でも多くの人に愛され続けているという事実が証明している。

私はその後、10年間勤めた会社を辞め、次なる思想と実践を実生活の中に見いだしていくことになります。それはある意味、トニオ・クレーゲルに共感した「思い」を昇華させたことになりますが、この「思想と実践」も未だに圧倒的少数派であることに変わりはありません。上記のレビュアーは「まぎれもない芸術家の孤独」といっていますが、それは思想でも学問でも共通することです。

その道を極めることはすなわち「真実の追究」に他なりません。求道者は常にそれを欲し、そこに近づくにつれ大いなる喜びを感じます。中原中也は「これ以上のない言葉の上で死にたい」と言いましたが、私は「人は真実の上で死ぬことができる」と理解しています。しかし、いつの時代も真実は少数者だけのものであり、真実を携えて生きている限り、理解されない孤独がつきまとうことになります。これに耐えきれず例えばアルコールに依存したりするケースも少なくないと思います。もっともアルコールに依存する程度の真実ではまだまだ追求が足りないのかもしれませんが、トーマス・マンはそれを称して「横道にそれた俗人」と言ったのかもしれません。