近視眼的な保守心理に覚醒を促す努力は徒労なのか

sakunou2005-11-03


確か中学生の時の数学で、「確率」というものを初めて習う際、教科書の導入部分に書かれていたのは次のようなことだったと記憶しています。

毎朝、何日も同じ路上に駐車してある車があります。一昨日も、昨日も、そして今日もその車はありました。明日もこの車は同じ場所にあるでしょうか。

確率論には、期待値とかがあって、未来予測的なものを数値化する学問であると思いますが、私は確率というものをを考えるとき、同時に人間の保守心理を思い起こします。つまり、「昨日も今日もそこにおいてある車は、明日も必ずあるに違いない」と思いたい気持ちのことで、それは確率的な数値とはかけ離れた、希望的観測として人々の心の中に植え込まれるものです。ましてそれが実生活と結びついている事象となると、人々は確率的な期待値を無視して、感情的に思考する傾向があると思います。

具体的な例を書いてみます。
もう何十年も石油は十分に生産されてきました。一昨日も、昨日も、そして今日も、日本には石油が十分に輸入されています。一時石油パニックもありましたが、それは情報操作によるもので、結局石油が切れることはありませんでした。だから明日も明後日もきっと石油はあり続けることでしょう。

十分な石油を確保し、豊かな文明生活を送っている国は、日本をはじめ一部の先進国でしかありません。実際私が十数年前に訪れたインドのプリーという町では、一日に数時間の送電しかありませんでした。

しかし、石油は有限であり、いつかは必ずなくなります。中国やインドが近代化していけば、そのスピードはさらに速まることは目に見えています。現在の原油高に対して、オイルピーク理論、つまり石油はもうそろそろ枯渇するのではないか、という研究結果も発表されていますが、かつての石油パニックが杞憂でしかなかったことから、どうせまた新たな油田が発見されて解決するさ、と多くの人は楽観視しているのでしょう。

しかし、増え続ける世界の人口や、温暖化、天候不順、水不足、食糧不足が叫ばれて、それが現実のものとなりつつある今日、その根元となっている豊かな文明生活に疑問を持ち、その改善を提唱する人があまりにも少ない現状に対し、私は違和感を覚えます。

結局のところ日常とは、「昨日も平和で今日も平和だったから、明日も平和に違いない」という希望的観測の連続であり、何か今よりも不自由になることは嫌だし、率先して生活を変えていくことはしたくない、という大多数の保守心理の元に営まれているのだと思います。そして、何かパニックが起こらない限り、本来人間は気付かない存在なのでしょう。

こういった環境的危機感だけでなく、政治的・思想的にもあるべき日本の姿を提唱し続けている知識人の中で、特に私が注目し、尊敬しているのは小林よしのり氏と副島隆彦氏です。特に今回は、小林よしのり氏が編集長を務める雑誌「わしズム」最新号(16号)の中の、漫画家のしりあがり寿氏の作品がよかったので、それを紹介します。本来漫画作品ですが、台詞のみ転載します。

いまどきガリバー 「メガネの国」 しりあがり寿
私はガリバー
またまた難破してしまった
そこは美しく小さな島 ・・・ところが・・・
人々は不安げに遠くの空をながめている
そこには遠くではあるが避けがたい災厄が
少しずつ確実に近づいてきているのが見えた。
人々は話し合った
その災厄を避けるために多くの困難と犠牲が必要なこと
それを皆で決心して実行するには大変な覚悟がいること・・・
・・・そんなとき・・・
ひとつの新製品が発売された
それは、「遠くが見えない」メガネ
このメガネをかければ
遠くに迫る災厄など影も形も見えず
ただ身近な自分の家族や自分の仕事や明日の楽しみだけが見えた
人々は争ってメガネを買い求めた
不安の消えた人々は子供の将来に思いをはせ
趣味のある人生に憧れ
「リッチでワンランク上の生活」を夢見た。
あらゆることを楽しみ まもなくそれに飽きると
次から次へと
さらにこまかなモノが見える
性能のいいメガネに買い換えていった。
「どんなケーキがはやってる?」とか「どの株が上がるか?」とか
「チョイモテ」とか「美肌」とか
「我々はもともと優秀なる民族なのでなんとかなる」とか
人々はそういったことに夢中になっていった。
メガには売れに売れたが・・・大もうけした商人たちは
いつのまにか島の外に逃げていった
「メガネを外した方がいいですよ」私は親切心から忠告したが
彼らはあいまいに笑うだけ
あきらめた私は小舟でその島を後にした。
やがて彼らは
イヤでもメガネをとることになるだろう
その時彼らの目には何が見えるだろう。

警鐘を鳴らし続けることは、苦労であっても徒労であるとは思いたくない。
私の総合的な提案も、近いうちに披露するつもりです。