ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」第2章イースターに黄昏が訪れるとき を読んで その2

sakunou2006-01-03



2章「イースターに黄昏が訪れるとき」に書かれているポイントを2回に分けて解説します。今回は主にイースター島の概略とたどってきた道についてです。ただしその内容はしっかりとジャレド氏の研究成果が盛り込まれています。

イースター島は、人の住める場所としては世界一辺鄙な場所にある小島。最も近い陸地は、西方向に約2000キロ離れたポリネシアピトケアン諸島

○面積は約170平方㎞。海抜約510㍍という数値は、ポリネシアの基準からするとさほど大きいものではない。穏やかな気候と火山の噴火に由来する肥沃な土壌に恵まれている。しかしポリネシアを基準にすれば寒冷な気候といえる。重要な熱帯性作物であるココナッツなどがうまく育たなかった。風の強い島で、年間の降雨量平均がわずか1270ミリと少ない。土壌も雨水をたちまち吸収してしまう。

○島民はポリネシア由来の人々であり、南米から渡ってきた人ではない。

○最初の入植は西暦900年以前のどこかの時点と考えられる。その後千年近くも外部との接触を持たず、世界の果てでほぼ完全に孤立していた状態を保っていた可能性がある。

○ヨーロッパ人が渡来した当時、島民は主に農夫としての生活を送り、サツマイモ・ヤムイモ・タロイモ・バナナ・サトウキビを栽培しながら、唯一の家畜である鶏を飼育していた。最初の入植者たちは、海鳥・陸生の鳥・ネズミイルカを捕獲できたが、これらの動物はいずれ減少したり絶滅したりすることになる。その結果島民たちは、炭水化物を過剰摂取し、さらに供給不足の真水を補うためにサトウキビの汁を大量に飲用した。この時代にイースター島の島民の虫歯の発生率が異常に高い。

○先史時代に集約的農業が行われた証拠があり、人口は最大時で15000人以上いたと考えられる。

○巨大石像(モアイ)は身分の高い先祖の象徴。887体のモアイが彫られたが、およそ半数近くが採石場に残されたまま。立てられたモアイは、平均すると高さが約4㍍、重さがおよそ10トン。最も高いのは10㍍弱。モアイを設置する台座(アフ)は最大で高さ4㍍、幅が15㍍。重量は小さいもので約300トン、最大のものは9000トンを超す。建設時期は西暦1000年〜1600年頃と思われる。後期の石像が高さを増す傾向にあった。

○時と共に石像の大きさが増していったという事実からは、敵対する首長同士が互いに相手方の石像に負けまいと競い合った様子がうかがえる。

○なぜイースター島民だけが桁違いの社会的資源を投入してその建造に心血を注ぎ、最大の石像を建てることに熱中したのか。

  • 採石場の凝灰岩がもっとも彫るのに適した材料だった。
  • 他の島々との行き来ができなかったので、その孤立性故に他と競争するというはけ口が閉ざされていた。
  • ある程度政治的に統合されていたので、島中の氏族が採石場に石を入手できた。
  • 高台の農園で余剰食糧が生産されていたおかげで、大事業も可能だった。

○石像を運ぶのにはカヌー梯子の改造版を使っていたと考えられる。もっとも大型の像を運ぶには、成人が500人必要だった。

○やがて食糧動物の絶滅と森林破壊が深刻になっていく。イースター島は太平洋における森林壊滅のもっとも極端な事例となり、世界的にもかなり極端な部類に属する事例といえる。森林が丸ごと姿を消した上、全種の樹木が絶滅した。そして社会が崩壊していった。飢餓が始まり、突発的な人口の激減を経て、人肉食へと堕していった。

○1863年、ヨーロッパ人による奴隷狩りが行われ、生存者の半数であるおよそ1500人の島民を連れ去り、ペルーの高山などで強制労働させ、大半はとらわれた状態のまま命を落とした。10人あまりの奴隷を帰島させた際、新たな天然痘が持ち込まれ、1872年にはわずか111人の島民しか残されていなかった。

次回は、イースター島社会の崩壊の要因に迫ります。
<つづく>