うちの子供が鶏を絞めるのを体験した話

私が生まれて初めて鶏を絞める体験をしたのは、今から約15年前、脱サラして石川の農場に行って間もない頃でした。私が小さい頃の記憶の中で、おじいさんが飼っていた鶏を絞めた光景を覚えていますが、いざ自分が絞めるという段になると、大変な精神的動揺がありました。しかし、それもすぐに慣れて平気になりましたし、今では「必要なこと」として仕事の一環で行っています。

自分で鶏を飼いそれを絞めるようになると、養鶏と鶏つぶしの必要性や意味を深く考えるようになります。特に「教育としての意味」を意識しています。それについての細かな見解については今日は述べませんが、かつてこの手の話が話題になったことがありました。約5年前のことです。

秋田県雄物川町雄物川北小学校の5年生の組で、「食と命の尊さ」を教えたいという担任の試みから、組で鶏を飼育して食肉として処理しその肉で子どもがカレーを作って食べることを計画したものの、反対する保護者から秋田県教育委員会に中止の要請があり、教育委員会からの指導で取り止めとなる事件がありました。
閑人妄語2http://yuyusangai.com/kanrinin/mougo2.htmlより

この手の話を私がはじめて意識したのは、高校生の時に読んだ宮沢賢治の「ベジタリアン大祭」という作品でした。この作品はベジタリアンの人たちの集会で、肉食賛成派の人と反対派の人が論争をしていく様子を描いたものです。「殺すのはかわいそうだ」という反対派の論調が最後に勝つという設定でしたが、賢治がどういう思いで書いたのかは分かりません。賢治が仏教徒としての、特に法華経の信者としての背景もあると思います。

その後、人類と肉食の関係については私もずいぶん勉強したので、それに関しては知識や意見のある人と時間をかけて論じてみたい気持ちはあります。でも今日はあまり難しいことは言わないで話を進めたいと思います。

前回鶏をつぶしたときに、それを聞いた長男が「俺も一緒に鶏を絞めたかった」と言いました。いずれ子供たちにはその現場を見せたり手伝わせたりするつもりでしたが、仕事の都合上いつも平日に鶏をつぶしていたので、保育園に通っている子供たちには見せる機会がありませんでしたし、まだ早いという思いもありました。しかし、長男のその言葉を聞いたことと、今回ちょうど祝日があったことで、2人の息子(6才と3才)も参加させて鶏を絞めることにしました。

結論から言うと、最初の鶏を絞めるときに、長男がほんの一瞬抵抗を感じたようでしたが、それ以降は全く平気な様子でした。鶏を絞めてつるした後、一緒に薪を拾い火を燃やしてお湯を沸かします。それから羽根むしり、解体も体験させました。

さらに今日は、解体した鶏ガラでスープを取っているところを見せて説明しました。ここまで見せたことで、彼らの中でも、生きている鶏が自分たちの食べ物になっていくプロセスが理解できたようです。明日はこのスープで作ったラーメンと、鶏肉を使ったから揚げを食べさせる予定です。

虫や動物が大好きな次男は、解体途中の鶏の頭を持ってくちばしでつついたり、切り取った鶏の足を持って怪獣ごっこをして遊んでいました。