縄文人やインディアンが「善」で弥生人や現代人が「悪」なのか

表題に関係ないようで微妙に関係するのですが、今年の6月から河合音楽教室でやっていた「沖縄三線教室」、本日をもって終了となりました。頼まれて始めた教室ですが、どうしても仕事と家庭が忙しすぎて継続困難となったため、半年で閉めることにしたのです。

今日生徒に聞かれてあらためて自分の三線歴を振り返ってみたところ、もう始めてから15年たっていました。私が三線を始めたのは、当時勤めていた会社を辞める数ヶ月前のことで、その後東京を離れ石川県の山の中に行くことになる私にとって、三線(沖縄民謡)を始めたことは偶然とはいえないものを感じていました。

食の安全や地球環境の問題に強い関心を持ち、自給的な暮らしをするため会社を辞めた私にとって、沖縄の音楽を始めたのはたまたまであり、意図するものを意識してはいませんでした。しかし、いわゆる環境派の人々と否応なしに関係を持っていくことになった脱サラ後の私の周りには、沖縄・アイヌ・インディアン・・・という、マイノリティに共感する人たちとの多くの出会いがあり、沖縄民謡を歌って自然農場で研修している私も、常に同類として迎えられていたという状況がありました。

そのような方々から聞かされる話で多いのは、「近代社会・資本主義の否定」と「縄文文化・インディアン文化の賛美」という強いコントラストを持った主張でした。そのアウトラインは「自然を壊す現代人」と「自然と共に生きる前近代人」であり、「インディアンは木を一本切ったら木の苗を一本植える」とか、シャーマニズム的な自然崇拝の物語が、常に近代資本主義社会のアンチテーゼとして語られていましたが、私にとっては単純かつ二律背反的な考え方である疑念がありました。

というのは、ある人は新幹線や飛行機に乗らないことを誇っていたり、別の人は頻繁に飛行機に乗ってアメリカン・インディアンに会いに行ったり、統一するテーゼがあるようでないという不明瞭さを抱えていたからだと思います。

もちろん、私としてもそれをジャッジする確固たる思想を最初から持っていたわけでもなく、今ようやっと見えてきたかなと感じている段階ですので、特にこれまで反論をすることもありませんでした。ただ、深く静かに思考をしたためてきて、少しの回答を何らかのタイミングで出そうとしているわけです。

さて、そこで今日の本題になります。私が尊敬してやまないジャレド・ダイアモンド先生の新作がつい先日発売になりました。上記で述べた「前近代人賛美」に対するカウンターとして、ジャレド氏の前作「銃・病原菌・鉄」で明快な視座を得て以来、私の頭の中でのささやかな学究はとどまることを知りませんが、氏はさらにその先を指し示し、光を与えてくれているのです。その新作が「文明崩壊」です。

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

発売を知ると同時に速攻で買ってきました。そして、読み始めたプロローグで、私の疑問に対する「明らかなる回答」を予言しているのです。その一部分を転載します。

過去の人々は、絶滅や追放に値するほど無知無能な環境の管理者ではなく、かといって、今日のわたしたちにも解決できない問題を見事に解決した全能で良心的な環境保護主義者でもない。わたしたちと同じような人々、わたしたちが直面しているのとおおむね似通った問題と相対してきた人々なのだ。わたしたちの行動の正否を左右するのと似たような条件に、彼らも正否を左右されてきた。もちろん、わたしたちが今対峙させられている状況と過去の人々が置かれた状況の間には違いがあるが、共通点もじゅうぶんに多く、従って過去から学べることも多い。
何より、わたしには、先住民に対する公正な扱いを正当化するために、彼らの環境保護的な行動を裏付ける歴史的仮説を引き合いに出すのが、本末転倒で危険なことに思える。あるいはほとんどの場合、歴史家と考古学者の手で、この仮説−”エデンの園”風環境保護主義−が間違っているという圧倒的な証拠が示されてきた。そういう仮説を使って先住民に対する公正な扱いを正当化することは、仮説が突き崩された場合、先住民が不当に扱われることを認めざるを得ないという含みを持つ。実際には、先住民の扱いは、環境保護的な行動を裏付ける仮説に基づいて決められるわけではない。それは、倫理上の原則に基づいて、つまり、ある人々が別の人々を追放したり、隷属させたり、絶滅させたりすることは、倫理的に正しくないという原則に基づいて決められるべきものだ。

この部分は、アメリカでいわれている先住民に対する極端に二分した評価への、極めて学術的客観的な第三の態度です。二分しているというのは言わずと知れた「インディアンや有色人種は進化的に劣っている」という態度と「先住民は自然と共に生きるすばらしき環境保護民である」という賛美です。日本では、そこに評価対象としてアイヌ琉球が絡んできます。

コロンブスアメリカ大陸到達に始まる大航海時代以降、ヨーロッパ人による先住民への侵略は重大な出来事でした。しかし、今から約5万年前にアフリカを出て全世界に進出していったわれわれの祖先は、行く先々で大型哺乳類を絶滅させていくことになりました。それを行ったのは、イヌイットアボリジニーやインディアンの祖先でもあります。

侵略された先住民と侵略した近代人は、もともと同じ人類です。その違いは何が原因で起こったのか、それを解き明かしたのがジャレド氏の前作です。そして、氏はさらにその先の、人類の未来につながるテーゼを示すべく解明を進めたのが今回の新作であり、その「たこつぼに埋没しない大きな視点」は、現代に生きるわれわれが共有していかなければならない大きなテーマといえるでしょう。