「わしズム」でボツになった原稿 その2

より健康になれる、生命力のある「よりうまいもの」は、味覚を中心とした快感をもたらします。私自身、脱サラ後、石川県の農場で感じた「うまい水」「うまい米」「うまい野菜」−−これらはより自然に近い生命力のある食べ物に他なりません。その意味を人間が「味」として感じるとき、それが「うまい」という快感となって、その人に受け入れられるのです。
快感故に、まずいものよりも「よりうまいもの」を求める行動をし、その結果、より健康になれるというのが、本来の人間のメカニズムです。
問題なのは、現代人が食物の選択(識別)をする際に、この快感原則以外の情報<見た目・宣伝文句・流行・イメージ・価格等>に頼りすぎていることです。つまり体で食べるのではなく、頭で食べているという状況です。また、自然に近い「よりうまいもの」の生産量も少ないため、比較できる機会が著しく少ないことも芳しくない状況の一つです。
具体的な例を挙げながら、この状況を説明していきましょう。

私はもともと鶏肉が好きだったので、スーパーの総菜や居酒屋の「唐揚げ」、ファーストフードのフライドチキンなどをよく食べました。頻繁に食べていると、「今日の肉はちょっと臭みがあるな」という程度の違いに気づくことはありましたが、特段気にせずに最後まで食べていました。
ところが、自分で鶏を飼ってその肉を食べるようになると、そのうまさに感動すると同時に、これまで食べていた鶏肉の味(不味さ)が浮き彫りになり、その後、市販されている鶏肉やその料理は食べることが出来なくなりました。
これは鶏の飼い方の違い、つまり「鶏の生命力の差」が味の差となっている例です。現在流通している肉用の鶏のほとんどは、ブロイラーと呼ばれるものです。ブロイラーは生後約二ヶ月で肉になります。二ヶ月でたっぷり肉が付くように改良された品種ですが、そのための餌や生育環境は、本来鶏が健康に育つ環境ではないことは確かです。
かたや、私の飼っている鶏は、薬など使わなくても十分健康になるような育て方をしています。密度の低い−−要するに自由に動ける鶏舎で、毎日元気に走り回っているので、肉の味がしっかりしています。当然、餌の違いも影響しているでしょう。
この二つの鶏の生命力の違いは、味の違いとなって表現されているということです。
しかし、比較対象となる「よりうまいもの」を味わう機会がなければ、快感原則も有効にならないということは、経験して初めてわかったことでした。「知ること」「比べること」はとても重要だということです。
鶏肉に限らず、多くの食物がコストと効率を優先させて生産され、その結果、食物の生命力が弱くなっている例が多く見受けられます。私は自分で生命力のある野菜・米・鶏を育てて食べてみて、生命力の違いは味の違いとなって確実に現れる、ということを知りました。そしてよりうまいもののほうがより健康になれる食べ物である、というのが私の体験的結論です。味覚には重要な意味と役割がある、ということです。

ところが味で食物の善し悪しを見分けようとするときに邪魔になるものがあります。化学調味料です。これまでの化学調味料反対論は、その毒性や危険性などを訴えてきましたが、決定的な立証ができていない状況ではないか、と理解しています。
かたや肯定論からすると「善の論理」になります。ちょっとうまみが足りないときにそれを助けてくれる、つまり「料理を美味しくしてくれる」から、いいことをしているのだ、ということです。
私の考えは、生命力のある「よりうまいもの」はより健康になれる、そこに快感原則がある、ということですから、裏を返せば不味いものはその不味さに意味があるということになります。不味いものは「不味いまま」にしてもらわないと、快感原則(生存原理)が狂いますので、この部分での化学調味料の必要性は否定されます。
では、うまいものをよりうまくできるのか?ということになりますが、それ自体で味が完成されているものに、あえてそんなものを入れても、うまみのバランスが狂うことは間違いないでしょう(気が乗らないのでこの実験はご勘弁を)。よって私の論理では、化学調味料の必要性は否定されました。

<つづく>