「わしズム」でボツになった原稿

幻冬舎版「わしズム」のvol.6〜vol.11に、計6回私の論文が掲載されました。その中で1回だけ、原稿がボツになって丸々書き直したことがあります。それはvol.9に掲載された
体験的食事論 大便から考える。「日本人は何を食べ るべきか?」1
の続きにあたるもので、ボツにならなければvol.10に掲載されるはずのものでした。その原稿を何回かに分けて本ブログに掲載したいと思います。(なお実際vol.10に掲載されたのは体験的食事論 近頃、気になる鶏肉の話―ブロイラーはなぜまずい?でした)

前回は、「大便の状態から、われわれの食べるべきものを識別しよう」ということを書きました。これは、すでに口に入れてしまったものが、本当にその人にとって必要な食物なのかどうかということを、大便が物語っているということでした。
話の順番が逆になりましたが、食物の識別については、まず口に入れる前や、口に入れたときに判断できなければなりません。今回はそのことを書いていきます。
たとえば、田舎の年配の方の多くは、外食の際、まず昔からの「日本の食べ物」しか食べようとしません。ご飯でないとだめだと言います。それ以外ならうどんかそば。スパゲティなど食べに行こうと言おうものなら、とんでもないと拒否されます。これは、伝統的な食習慣が身に付いている故の、新しい食べ物に対する拒否反応です。それによって、異物を取り込まないようにしていることになります。
また、「食べ合わせ」ということから識別をする場合もあります。「ご飯とアジの開きと漬け物を食べながら牛乳を飲みますか」と聞けば、ほとんどの日本人が「気持ち悪い」ということになるはずです。完全にご飯が主食の状況では、「食べ合わせの不都合」から、牛乳を異物と見なすということです。
しかし、強制的でも何でも、一旦習慣化してしまえば、体に合うとか合わないとかに関係なく、異物を飲み続け、食べ続けることができてしまうということも、種の生存本能の一つでありましょう。つまり、生存を優先させるために味覚が変化(鈍化)していくという機能が、人間に備わっているということです。
極端な例を言うと、日本列島全体で、食べられるものがパンと牛乳だけになったとします。最初はいやだという人もいるでしょうが、徐々に習慣化し、やがては味のことで文句を言う人はいなくなるでしょう。しかし、牛乳(乳糖)を分解できる人の割合は、日本人で5%ですから、その人達の子孫が有利に生き残り、やがてはかつての日本人とは似ても似つかぬ民族になっていくのではないでしょうか。
もう一つ極端な例を出します。この地球上から、すべての食べ物が消え、口にできるものは、ビタミンやタンパク質などの宇宙食のような錠剤だけになったとします。膨張剤などで満腹感も得られるとすれば、これも一つの食事として慣れていくし、生き延びてゆくこともできるでしょう。しかし、本来自然の恵みである食べ物が、化学的な錠剤に取って代わったとき、人間がその後、どんな変化を遂げるのかは想像できませんし、したくもありません。
こんな極端な状況は、まず起こりえないだろうとは思いますが、私が感じている「現代の食を取り巻く状況への不満」は、この例に通じるものがあったりします。
この話は、ともすると「買ってはいけない」に近いものになりがちですが、ことさら「食の危険性」を強調するつもりはありません。私の基本姿勢は、

  • よりうまいものはより健康的である
  • よりうまいものを食べてより健康になる手段を考えよう
  • そのためにはよりうまいものがあるということを知ろう

ということです。特に「よりうまいものが忘れ去られようとしている」ことが、私から見た一番の問題点です。
ここで言う「よりうまいもの」とは高級食材のことではありません。たとえば私がvol.6で書いた「虫に食われない野菜」であり、vol.7で紹介した「尺角二本植えの米」などのことを指します。一言で言えば「より自然に近いもの」となります。それは、季節(旬)・土作り・栽培方法などの条件が合っている作物であり、そういうものを原材料にした食物のことでもあります。その他、肉や魚も含めて「生命力のある食べもの」と言い換えることもできます。

<つづく>

わしズムWASCISM〈Vol.9〉

わしズムWASCISM〈Vol.9〉