虫歯に関する一考 その2

野生動物の歯というものは、主に何を食べるか(主食)ということに特化しています。つまり、それぞれの動物の歯は、その主食を食べるために都合のよい形状(形、堅さ、顎の動きなど)になっているということです。たとえば肉食動物は、肉を切り裂くのに都合のよい鋭い切れ味を持った歯になっているし、草食動物は、草をすりつぶすために平たい歯と平行移動する顎を持っています。

では、人間の歯はどういう食べ物を食べるのに都合のよい構造になっているのでしょうか。

ここで最初に押さえておかなければならないのは、約一万年前に農耕が始まって以来、人間の食べ物はものすごいスピードで変化してきましたが、歯の構造の進化はその変化にとうてい追いついていない、ということです。このことを無視して人間の食べるべきものを考えても、真実は見えてこないと思います。

この問題に真っ向から挑んだのが、島泰三著「親指はなぜ太いのか」です。

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る (中公新書)

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る (中公新書)

著者は、マダガスカル島でアイアイという不思議な猿の調査を長年にわたって行い、それまで謎に包まれていたこの猿の主食を突き止めました。そして、その不思議な手の指(中指だけが針金のような鉤爪となっている)と歯の形と主食の関係(食べ方)を解明したのです。

その後、すべての霊長類の手の形の違いや歯の形状と食べ物の関係を調査し、「主食は、霊長類の種の口と手の形を決定する」という「口と手連合仮説」を立てました。それを実証したのがこの本なのですが、そこからさらに考えを進めて、「人類がなぜ二足歩行を始めたのか」という大きなテーマに挑む壮大な物語でもあります。

まず著者は、現代人・初期人類・他の霊長類の歯の特徴、つまり形状やエナメル質の厚さ(つまり歯の堅さ)を比較検討していきます。

また、人間の歯についていえば、サル類としては類例がない平坦なすりあわせ面を持っていることが何よりも特徴的である。そこには牙状の犬歯がない。臼歯の表面はつるつるで、葉食のサルたちのようなギザギザのかみ合わせではない。そして、歯のエナメル質がことさら厚い。

霊長類と化石人類のエナメル質の厚さを比較したデータによると

  • チンパンジー 0.95mm
  • ゴリラ    1.14mm
  • ヒト     2.17mm
  • アウストラロビテクス 2.82mm
  • パラントロプス 3.19mm

となっており、現在でもヒトの歯は近縁のチンパンジーやゴリラよりも硬いものであることがわかります。

これに加えて、さらにその手の形などから、初期人類の主食を「サバンナに放置された肉食獣の食べ残しの骨を、石でたたき割って食べていた」と推測しています。

「”bone hunting”はこれだけをとりだしてしまうと、霊長類にも現代人にも類例がないので突飛に見えるが、食性進化史的ないし技術史的に見れば、大型獣猟の発生と共にその中に吸収され発展的に解消したと見ることが出来る。獣骨割り−骨髄食が現生狩猟採集民間にほとんど汎世界的にみられるのは、それが大型獣猟以前からの古い習性の名残である可能性を暗示するようにもみえる」と渡辺仁さんは言う。
骨はサバンナに豊富にあるといっても、大型の食肉動物たちが食べ残したそうとうに硬いものだ。しかし、これを割ることが出来れば、脂肪のかたまりである骨髄はそのまま食物になる。傍らにあった石で大きな骨を叩き割り、骨髄を取り出して食べる。最初はそうして始まったのだろう。しかし、実際には骨と骨髄をはっきりわけることはできない。骨を噛み潰すのは日常になる。手に持った石は、そのままでは口に入らない大きな骨を叩く道具であり、平らな歯列と厚いエナメル質は、骨をすり潰すために欠くことのできない道具となる。骨の栄養に果実や葉を加えると、高いカロリーのバランスのとれた栄養豊かな食事となる。しかも、サバンナには骨はほとんど無限にある。この誰も使わないニッチに初期人類が足を踏み入れたのだから、成功は保証されていたといってよい。

この本は、最終的に「人類の二足歩行の起源に迫る」ことが主題となっているのですが、そのプロセスの中で歯の形状は重要な要素になっています。このことを無視して、人間に近いチンパンジーやゴリラが植物食性なのだから、人間の食性も本来植物食であるはず、と結論づけることはできません。約700万年前に共通の祖先から別れた人類は、それまでの「森」という住環境から離れ、過酷なサバンナの中で、とてつもない冒険を行った結果、その食性も全く違ったものになっているというのが、人類の進化の物語の序章であるからです。

<つづく>