ミュージシャンがメッセージソングで思想を歌うことの限界 そのX

思いつきで書き始めたこのテーマも、自分の中ではあまりにも思い入れが強く、歴史と経験も深いことから、書いているうちに収拾がつかなくなりそうになってきたので、その3、その4・・・と本来続いていくのですが、こればっかりもやっていられないので、最後に言いたかったことをここで書いて、一旦収束します。

ただし、「その2」で佐野元春について指摘した
「スウィート16」というアルバムで、オノ・ヨーコと競演し、ジョン・レノンばりのボーカルで歌う曲を聴いたとき
という点についてのみ、簡潔にまとめておきます。

思想的、社会的、歴史的な深い洞察なしに、マスコミから仕入れた表面的な事実のみで、安易なヒューマニズムに陥った結果として、その行き着く先が「ラブ&ピース」では、思考としては停止してるに等しいと私は考えます。

実際、9.11NYテロ後、坂本龍一が緊急出版した「非戦」という本に、佐野元春も名前を連ねていますが、この出版を日本で行った愚については、「NYに住んでいて、アメリカで音楽活動をして金を稼いでいる坂本が、日本で非戦などという出版をなぜ行うのか、アメリカで出版しろ」と批判されています。だいたい、9.11NYテロのいかがわしさは、多くの人が今では「自作自演」を疑っており、私もこのブログでそのことを指摘しています(テロで思考停止せず、真実を見よう)。

坂本龍一はその後、傷心のままさまよい、マダガスカルで「アイアイ」というサルの保護活動をしている学者・島泰三にアフリカに誘われ、そこで触れたアフリカの大地や動物たちとの交信から「ELEPHANTISM」、日本語でいうと「象主義」という考え方に到達し、その作品を作っています。

坂本龍一のアフリカ ― ELEPHANTISM [DVD2枚付] (ソトコトDVDブック)

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坂本龍一にしろ、佐野元春にしろ、そういう世界平和のためのメッセージを発しながら、最後までミュージシャンを仕事として、それで飯を食っているということに、どういう必然性を感じているのでしょうか。

私も、若い時分、彼らの音楽に心酔しており、十分恩恵を受けている立場から、彼らをつるし上げようとしているわけではありません。真実を追究するプロセスとして、疑問に思ったことを提示しているのです。また、同時に、ミュージシャンによる浅はかな理解とメッセージが、日本の若い人に悪影響を及ぼす可能性を案じているのです。それは私がかつて痛烈に経験した間違いや遠回りの後悔を公開していることでもあるのです。

話を結論につなげていきます。
私は以前、メッセージソングに真実を求め、自らも作詞作曲活動の中で真実を表現しようと心血を注いでいました。しかし、表現することのみに重きを置きすぎて、問題の本質を追究する学問をおろそかにした結果、愚にもつかない詩を書いて、時間を浪費していました。

しかし、それでも、詩を書く中で、少しずつ成長してきたのでしょう。とにかく毎日詩を書いていて、その学習効果はあったようです。その結果、私としては、表現で真実を追究することの限界を感じることになったのです。それは、才能がなかったという風に言えるかもしれませんが・・・。

作詞のピークは、23才から26才の3年間でした。その最後の方で書いた詩の一つに「サル三部作」というのがあります。

サル三部作

1.豆食うサル

サルが豆を食っている
サルはいつまでも豆を食ってる
表情を変えずに いつまでも

 おいらは動物だったのか
 テストで何点とったのか
 昨日どこへ行ったのか 忘れちまってる
 
牛が草を食んでいる
牛はいつまでも草を食んでる
表情を変えずに いつまでも

 私はどこから来たのか
 スーツで身をまといながら
 缶ジュースを手に持って さまよってる
 
あーもう動物に戻れやしない
本能は電車の中に置き忘れてしまった
とことん付き合う酒はあきらかに不味い
かつての知性もテレビの中に預けてしまった
 
サルが豆を食っている
サルはいつまでも豆を食ってる
表情を変えずに いつまでも
いつまでも いつまでも・・・
 

2.サルが豆を食った後

サルが豆を食った後
サルは仲間を捜しに 出かけた

空に虹が架かった日
サルは仲間を見つけて 遊んだ

 サルは生まれてどこへ行く
 サルは死んでどこへ行く・・・


3.その後のサル

サルがその後どこへ行ったのか 誰も知らない
鉄砲を持った人が森に入り サルを探した
 開発をやめろといっても
 聞かない人大勢
 いい加減にしてくれ
 
 人間は無知だ 人間は無知だ
 自分の愚かさを知らない
 人間は無知だ 人間は無知だ
 自分の首を絞める
 
僕がその後どこへ行ったのか 君も知らない
令状を持った人が電波使い 僕を捜した
 殺戮をやめろといっても
 聞かない人大勢
 いい加減にしてくれ
 
 人間は無知だ 人間は無知だ
 自分の愚かさを知らない
 人間は無知だ 人間は無知だ
 神の首を絞める
 
 人間は無知だ 人間は無知だ
 自分の愚かさを知らない
 人間は無知だ 人間は無知だ
 自分の首を絞める
 
人間は無知だ 人間は無知だ・・・

これは、「動物(自然)と人間」「本能と理性」の対比の中に、人間社会の未来の不透明性を、サルという人間に近い動物を通じて表現したものです。今現在、日本のあちこちで、サルの被害が人間生活を脅かしていますが、私が当時読んだ、藤原新也のインド放浪記の一つ「動物千夜一夜物語」に影響を受けたのかもしれません。

上記の詩の中にあるように、環境問題などを考えるにつけ、同時に人間社会の仕組みやそこに至る歴史も知らなければならないし、それを政治に訴えるのか、自分の生活で表現するのか、何かしらの行動なくして、何も変えることは出来ない。そしてそれは、いつまでも詩を書いていることでは実現し得ない。おそらくそのような考えに、徐々になってきたのだと思います。そして、当時の複雑な私の生活状況を省略して(格好良く)言えば、私の表現活動は、次の詩を最後に終結することになりました。そして、さらなる真実追究の旅に出るため、会社を辞め、新たな道を歩み出したのです。

真実の一杯

ゴミための中のボウフラにも 真実の一杯を
ダニのような連中にも 真実の一杯を
 与えてやってくれ それがないばっかりに
 今夜も枯渇した連中が
 街の中を騒音立てて 走り回ってる
 
キリスト教にもイスラムにも 真実の一杯を
君の会社の社長にも 真実の一杯を
 与えてやってくれ それがないばっかりに
 今日もさまようソルジャー達が
 紙切れを片手に持って わめき散らしてる
 
今の時代に必要なものじゃ もう我慢出来ない
いつの時代にも必要なもの それがなければ生きて行けない
 
タクシーとばす運転手にも 真実の一杯を
ビデオに出てるおねーちゃんにも 真実の一杯を
飢えて死んでく子供にも 真実の一杯を
ギターを弾いてるあんちゃんにも 真実の一杯を
真実の一杯を・・・