正義 (Justice)とは何か

sakunou2005-10-06


先日(10/3)のブログで、靖国裁判について書きました。その最後の部分、「板垣 英憲(いたがき えいけん)ニュースにブログからの引用」の中に、最高裁判所が設置している「正義の像」(テミス像)について述べられている部分があります。

この「テミス像」は、ローマ神話における正義の女神「ユスティティア」と同一視されることがある、ということですが、この「ユスティティア」神について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のように書かれています。

ユスティティア (Justitia)はローマ神話に登場する正義の女神。
その名はラテン語で「正義」を意味する。また、英語形ジャスティス (Justice)でも知られる。正義の女神であることから、ギリシャ神話のホーライの一人ディケや その母で掟の女神であるテミスと同一視される。 また、アストライアとも同一視されおとめ座の女神とされる。
裁判所などでは、天秤と剣を手にし目隠しをしたユスティティアの像を飾る習慣がある。

裁判制度は、近代国家の三権分立の一つである「司法権」であり、それを執行する機関が裁判所です。建前として、三権分立の名の通り、司法権も本来行政権・立法権、つまり政府や国会(議会)から独立して、それらに影響されることなく判断を行うべき機関であるはずです。しかし、多くのおかしな司法判断を見ていると、それも疑問に感じることが多々あり、さらに述べれば、正義 (Justice)を判断( judge)する「生身の人間」である裁判官が、どれくらい独立性を保つ身分と動機を確保しているのか疑いたくなります。

法曹界の実情というものがどういうものかということについては、別途研究していきたいと思います。今日は、女神ユスティティアから見る「正義」というものについて、副島隆彦の学問道場における論文から紹介したいと思います。

女神ユスティティアは右手に天秤棒を持っています。これは「正義分配の基準」を意味するものとされています。これは理解に難くないことだと思います。では、左手に持っている剣は何を意味するのでしょうか。副島氏の文章から引用します。

そして、女神ユスティティアは右に天びん棒を持っていて、左手に剣(つるぎ)持っているのである。これは、パワー、つまり、暴力、軍事力、支配力を意味しているということだ。相手を剣の力で押さえつけるわけである。それも正義のもつ力の一つで、簡単に言えば、裁判所が民事上の話で言えば、強制執行することを指しているわけである。
「お金を払いなさい、払わなければあなたの自宅を差し押さえます(seizure)」ということだ。
刑事裁判でいえば、警察力を使って、犯罪者、社会の秩序を乱すものを、捕まえて処罰する。これは非常に分かりやすいだろう。

ある意味正義とはパワーであるという論理も納得出来るものがあります。しかしここから重要な部分が出てきます。さらに引用を続けます。

しかし、これまで日本人が殆ど誰も分からなかったし、考えなかった問題がある。「なぜ、女神ユスティティアは目隠しをしているのか」と言う問題である。これは相当に重要な問題だろう。
(中略)

長尾龍一 著『法哲学批判』P.25−26 信山社より引用開始)
正義の女神は右手に剣を持っている。剣は正義の本質的属性であろうか。この点については、大略五つの考え方がありうる。
(中略)
第四の立場からすれば、正義の女神は実は娼婦であり、戦いの結果が明らかになった段階で勝者の胸に抱かれる。しばらくするとまた闘争が起こり、勝敗が入れ替わると、また新たな勝者の胸に抱かれる、と。かくて「正義の女神は腕づくで押さえ込まねばならぬ」ともいわれる。これはいわゆる「強者の権利」の思想、実力説である。
長尾龍一論文の引用終了)
(中略)

この「強い者に抱かれる」というのも非常に分かりやすい話である。これは「力のある方が正義だ」と言う話である。確かにそうだ。正義とは力だという日本語は、英語では、Might is Right.とは言わない。これは間違った英語である。だが、英語にも、「勝てば官軍」というような考え方が厳然としてある。おそらく、裁判官である女神ユスティティアが、争いごとが終わった後に目隠しをはずして、その事実を認めます、という思想なのではないだろうか。

レイシオを部分概念におとしめるほどに、この、剣と、目隠しとを合わせた3つの事実から、法とかジャスティスという考え方は成り立っているだろう。

この目隠しの問題が私にとって非常に重要だった。このことがようやく分かった。
日本人でも、東アジア人でも分かることだが、「泣く子と地頭には勝てぬ」というように、力や暴力、軍事力をもっている人にはかなわないのである。この事実を認めようと言う思想である、と私は判断した。天びん棒で測るレイシオの思想というのは、ユダヤ人の金儲け、利益分配の思想である。それに対して、権力の思想を剣が表している。

そうすると、はじめて、ここで目隠しをしていることの意味が分かってくる。
ハッキリ言ってしまえば、裁判官と言う人種は、その時々の国家体制や、権力者におもねるような人たちである、ということである。自分たちのようなただの爺さんになった秀才が、政治体制を巡る正しい間違いの判断などできない。だから、局、彼らは目隠しして現実を認めます、というのが本当のところであろう。
それを、「法」というのではないか。ここまで言い切って良いのであろうかと私も思うが、そういうことだろう。古代の法の女神、正義の女神に真実が公然と隠されていたのである。

上記引用文の最後の部分は圧巻だと思います。だから裁判所には女神像が飾ってあるのか、と揶揄したくなるほどです。