戦争認識問題はもはや大政翼賛会

昨日の「サンデープロジェクト」では、小泉純一郎をはじめ、すべての党首が出席し、選挙の重要課題について討論していました。時間の関係で小泉が先に退席する直前のタイミングで、靖国参拝について話題が振られました。子供が近くで騒いでいたので、聞こえにくかったのですが、小泉は二言三言叫んですぐに退席。おそらく自分が参拝するに当たっての、これまで通りの(出鱈目な)論拠を繰り返していたと思います。

小泉の参拝は人気取りでしかなく、中身がありません。それは以前に山本一太を批判したときにも述べましたが、靖国神社は不戦の誓いをするために行くところではないということです。それがわからずに小泉の参拝を支持するポチ保守は、単に靖国に反対している人たちに反対するために賛成をしているようなもので、天才バカボンの「反対の賛成なのだ」と同じレベルと言えるでしょう。これについての考察を、小林よしのり氏と西部邁氏の対談本「本日の雑談7」から引用します。

小林 そう。小泉首相靖国参拝そのものを批判しなければならない。そして、その参拝をやめさせようとしている側の心根も批判しなければならないんだ。これが、むずかしい。要するに、親米保守派は靖国参拝をやめさせようという奴らを一所懸命批判するけど、小泉が靖国に行く心根の卑しさと低さについては、全然批判の対象にしていない。そこがおかしい。
しかも小泉は、不戦の誓いをするために行くと、必ず言う。「不戦の誓いのために行く」という言葉は、自分自身にも相手に対しも、どっちにも嘘をついていることになるのに。つまり、軍事拡大路線をとる中国に向かって、「我々は不戦の誓いをしているんです」と言うことが、いったいどんな意味を持つのか、どんな影響を持つのか、ということをまるでわかっていない。そんなことを一国の首相が言っていいはずがない。「我々は無防備な、裸の状態になるために、その誓いをするために参拝するんだ」なんて言っていたら、「おおそうか、俺たちはどんどん軍備増強するから、お前たちはその程度にやっとれ」って言われるだけじゃない?向こうを喜ばせる話にしかならない。それは一国の首相が、相手国に向かって言う言葉じゃないよ。
しかもこれは、憲法改正にも波及する話なのよ。「不戦の誓い」と言うなら、自衛隊すらいらないのか、防衛戦争もやらないのか、という話になってくる。さらにこの「不戦の誓い」という言葉は、自国民に対しても相手の国民に対しも丸ごと、嘘の言葉なわけ。

話をサンデープロジェクトに戻します。このとき司会の田原総一郎は、靖国の関連資料を持ち出して説明を始めました。そこで強調されたのは、「過去の大戦は避けることができなかった」という、おそらく靖国神社側の見解だと思われますが、それを田原に突きつけられた各党首たちのコメントはひどいものでした。特に民主党の岡田は、体を震わせながら、「あの戦争が正しかったなんてとんでもない!絶対に間違いであった」という主旨の発言をしていました。
ちょっと待って下さい。「避けられなかった」と「正しいかどうか」ということは、全く次元の違うことではないですか。自分が当事者でもなく、当時の責任者も処刑されたり自決したりして不在の今、正邪つまり善悪を持ち出して過去を捌く権利がどこにあるのか。大きな歴史の流れを、単純な感情で判断すること自体が不自然なことです。自分が清廉潔白な清く正しい人間である、と言いたいのでしょうが、「人気取りのためいい子ぶる」感は否めません。岡田に続いて、共産党社民党も「そうだそうだ」の大合唱。田原も含めてこのジャッジメントには異論を挟む余地のない、全体主義と化していたのでした。

先日紹介したヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」では、アメリカ人の学者でさえ、「日本は明治維新以降英米の属国であり、避けられない戦争に引きずり込まれた」と論じています。私も、副島隆彦著「属国日本論」をはじめとする多くの著書で勉強すればするほど、単純に「あの戦争は間違っていた」などと軽はずみに言うことはできないと考えるようになりました。さらに踏み込んで、ジャレッドダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」のように、農耕の始まりから人類の侵略の歴史をひもといている名著を読むにつれ、人類と戦争の問題は簡単に論じることはできない、と理解しています。

政治家本人は多忙であっても、政策秘書や党内の国会議員を抱える中で、重要な問題について、もっと真剣に研究することは可能なはずです。それができないのは、感性・センスが無いの一言に尽きると思います。さらに言及すれば、国会議員として、「この国や国民のためにどのような戦略を立てればいいのか」という公の精神よりも、「自分と政党の人気取りのため」の動機の方が優先してしまい、まともな判断ができなくなっているのです。