世界の主な宗教のアウトライン その2

前回は、1.啓典宗教かどうか 2.個人救済か集団救済か の2点について説明しました。さらに小室直樹著「日本人のための宗教言論」よりアウトラインを続けます。

終末感

宗教論のポイントの一つは終末感にあるが、キリスト教ユダヤ教イスラム教などの啓典宗教には、終末に当たって、最後の審判という最終審判がある。終末に当たってすべての人間がこの裁判を受けるわけだが、この審判の結果がどうなるかが、人間にとって最大の問題なのである。

この終末感というものが宗教によってどうなっているのか見ていきたいと思います。

イスラム
コーランには、最後の審判がいつやってくるか書かれていません。最後の審判に際しては「天は裂け、地は鳴り響き・・・この世はものすごいことになる」と書いてありますが、その時期については一切触れてないということです。

キリスト教
キリスト教の終末感の特徴は、「今すぐ来る」ということです。イエス自身「私がガラリヤ湖を一回りしてきた頃に」と答えています。もうすぐ最後の審判が始まる。イエス・キリストを信じさえすれば救われる。そのよきニュース(福音)をなるべく多くの人々に伝えなければならない、大急ぎで。

仏教
仏教は、因果律だから、自分が救われる原因を作らなければ、救済されることはありません。キリスト教のように信じたら救われるということはないのです。仏教には天地創造という考え方がないので、終末論もないということです。さらに「皆殺しの思想」がなく、神との契約という発想もないので、善と悪の最終戦争である「ハルマゲドン」の考え方はありません。ユダヤ教キリスト教には、神との契約を破ったら皆殺しだという考え方があり、それが善と悪の最終戦争につながっていきます。ちなみに、末法思想とは、本義的な仏教思想ではなく、カルト仏教的な側面から出てきた考え方だということです。

いわゆる天国と地獄

Heaven & hell これは宗教につきものの概念かと思われていますが、各宗教ではどのように定義されているのでしょうか。最初に結論を言いますが、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教儒教の中で天国と地獄がある宗教はイスラム教だけなのです。ではその中身を見ていきたいと思います。

イスラム教では、最後の審判の時、アッラーが裁判して、有罪となったものは地獄へ行き、無罪となったものは緑園という天国に行きます。この場合魂が行くのではなく、肉体が行くのです。
イスラム教の地獄は、灼熱地獄。朝から晩まで火で焼かれる日が未来永劫続きます。一方無罪の人が行く天国は、潺々(せんせん)と川が流れ、大ご馳走がならび、何回セックスしても処女を失わない性的魅力のある乙女がお相手。酒もこの上なく美味であり、とても気持ちよくなるが絶対酔わない、アル中にも肝硬変にもならない。だから、「こんな結構な酒が飲めるのだから、現世では禁酒せよ」ということです。
キリスト教の「神の国」は、天国ではありません。神の国は、死んだ人間の魂が行くところではなく、この世がそのまま神の国になるのです。イエス・キリストの再臨とは、誰かに生まれ変わってくるということではなく、生身のイエス・キリストが肉体のまま帰ってくることをいいます。ですから「私はキリストの再来だ」などといっている教祖はインチキなのです。
最後の審判の日、生身のイエス・キリストが、元の姿をもってこの世に再臨し、そして神の国が到来します。その時に神の国に入れる人間と入れない人間を識別します。有罪を宣告された人は、神の国から追放され永遠に死滅します。では、無罪の人が入る神の国とはどんなところか。キリスト教は一切言いません。そして、言わないということが宗教的に絶大な効果をもたらすということです。
仏教には極楽と地獄があるのでは、と考える方もいるでしょう。しかし因果律の仏教は、輪廻転生を説いています。これは、六道(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を、善悪の業によって行ったり来たりするもので、天といえどもそこでの行いが悪ければ、来世は地獄に行くこともあり得るわけで、楽園としての天国ではありません。仏教の最終目標は、悟りを開いて涅槃に入り、輪廻しなくなることです。仏教に関しては、説話という形で伝播していった側面が強いため、インド古来の来世思想などがごちゃ混ぜになっていることがあるということです。