偽装をつくった背景は? その3

もし仮に、ふれあいの里で中国産の椎茸を箱詰めし、それを偽装して年末に売ったとして、果たしてそのことに気付く人はいるでしょうか。色・形・大きさに遜色がなければ、まず分からないと思います。ここに偽装の原点のひとつがあるのです。原因のひとつに、多くの人(特に日本人?)は、食べ物の選択基準を「見た目に頼っている」ということがあります。

そもそも人類というものは、視覚を発達させることで生存的地位を確保してきました。その結果、他の哺乳類や鳥類などの動物から比べると、視覚以外の感覚が退化してきたといえます。それは、生存に必要なセンサーを大きく視覚に頼っているということです。犬や猫と比べてみても分かることですが、音や臭いに対する感覚は、人間よりも何百倍も優れていることは周知の事実です。また、うちで飼っている鶏でも、誰に教わるでもなく自らが食べるべき草とそうでない草をきっちりと分けて食べることができます。それは視覚なのか味覚なのか臭覚なのか分かりませんが、目の前にごちゃ混ぜになっている刈り取った草の山の中からでも、瞬間にその識別を行うことができます。

このような本能的な動物の光景を日常的に体験していると、視覚のみに頼りすぎている人間の、生物としては特別な姿が見えてきます。人間(現世人類)が誕生した約15万年前以降、われわれの祖先は、まず絵や色というものを作り出しています。それは体に塗った装飾や壁画などです。その後その能力は、象形文字などを経て現在に通じる「文字」を作り上げていきました。そして絵画や写真・動画などの発明となって近代社会や文化を創りました。

こういう状況の中で、われわれは食べ物の識別(よい食べ物か悪い食べ物か)をする場合、視覚情報である「見た目や写真や説明書き」というものに重きを置くことになりました。それは鶏が、目の前におかれた草に対して五感を総動員して「どの草が食べるべきものなのか」と瞬時に選択しているのとは大きく異なります。そして、視覚のみに頼る状況では、その食物の物体そのものを総合的に判断するよりも、パッケージに印刷されている文字情報が大きな意味を持つようになってしまっているのです。ですから、商品パッケージに「国内産」とか「無添加」とか、書かれているものを判断基準にするわけですが、文字は簡単に捏造できるという欠点があるのです。

このような背景をベースにした上で、消費者の皆さんが「自分が欲しいものがいつでも手に入る」状況(エゴ)を求めたとき、そこに偽装のきっかけが生まれるのです。悪意の提供者(生産者)が、「どうせ味など分かるわけない」ということを、長年の経験から学んでいるとすれば、「品切れで苦情を言われる苦痛」と「偽装が発覚する確率とリスク」を天秤にかけることになるでしょう。その人も最初は善意の提供者であったかも知れませんし、今でも悪意の提供者の偽装が発覚しないだけで、多くの消費者が羊頭狗肉を知らずに口にしているのかも知れません。

このような偽装の原因のひとつである、消費者エゴともいえるわれわれの果てしない要求は、今ではグローバリズムという国を超えた流通の中で、見えない軋轢を生んでいます。グローバリズムの始まりを大航海時代に求めるとすると、最初は植民地や搾取や奴隷という目に見える形で行われていました。今ではかつての列強国が植民地のほとんどを解放してきましたが、それで搾取が終わったというわけではありません。

例えば現在、工業国である日本は、工業製品を売った金で外国から食料品を買っています。それは、単に必要最低限のものを買っているにとどまらず、「消費者が欲しいと思ったものが常にあること」を実現しています。しかしそこには「どのような無理難題を他国に押しつけているのか」、という感覚はわれわれには伝わっていません。かつてWTOに関連する国際会議で、アフリカのある国の代表が言いました。「欧米をはじめとする先進諸国は、我が国から輸入するコーヒー豆の量を、せめて半分にしてもらいたい。そうすれば私の国でも、最低限必要な食料を自給することができるのだ」。

これはつまり、今では経済とか貿易とか金融という手段を使って搾取が行われている現状を物語っています。利益や快楽を享受している側(先進国)が、直接鞭を打って働かせるという罪悪感を意識することがない分、逆に事態は深刻なのかも知れません。

もちろん貿易がすべて悪いということではありませんが、「民間にできることは民間に」というスローガン(グローバリズムの原点のようなもの・市場絶対主義)の裏には、さらなる弱肉強食の世界が、人を直接鞭打つことなく、知らぬ間に進んでいく危険性が潜んでいます。

偽装というものを考えながら、話が大きくそれてしまったような気もします。しかし、偽装問題に限らず、多くの現代社会の問題を考えていくとき、常に「人類とは何か」という客観的かつ科学的視点が必要であるということを最後に申し添えておきます。