この20年で社会は会社はどう変わったか

昨日東京からお客さんがありました。NPO法人「緑の家学校」の代表および関係者の方々です。この団体の詳細や活動内容の紹介は省略します。HPがありますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。http://midorinoie.hp.infoseek.co.jp/

私のところにこられたのは、田舎に就農者の拠点を作りたいということで、それに関する相談でした。是非吉井町に作りたいということです。この団体の代表の方は、15年前に意識の変革を経験し、自然を大切にした暮らしや、お金だけに頼らない生き方をどう実現するのか、ずっと考えてきて、現在の活動に至っているということです。

15年前といえば、ちょうど私が27才で脱サラを決心した年です。その時の私の意識の変化も、この代表の方とほぼ同じといえます。似たような考え方同士、理解し合うのに時間はかかりませんでした。この代表の方が言うには、現在都会はとてもくたびれているということです。年配のサラリーマンがどんどん首を切られ、若者の給料は叩かれている。若者は安い給料で、東京の高い家賃を払い、かつかつで生きているのが現状だ。田舎に生活をシフトしていかなければ、日本はどうにもならない。と訴えていました。

私もうすうすそうなのではないかと思っていましたが、東京で若者を集めて学校を運営している方から実際に話を聞くと、現実の話として実感します。どうしてこんな世の中になってしまったのか。時代の流れと複雑な要因が絡み合っているのかとは思いますが、大きくはグローバル化というものに根本原因があると考えます。その論理展開は、今はまだできませんが、経験としての流れを追っていきながら、考察してみたいと思います。

昭和57年(1982年)、私は電電公社に入社しました。当時信金職員の父親は、まだ週休二日になっていなかったと記憶しています。ですから、入社した電電が週休二日であることに驚きました。こんなに休めるのか、と。私が配属になった電話局は、特に労働組合が強いところで、「電話局長を監禁して要求をのませた」等という武勇伝を聞きました。毎年職場の要求というのを組合に出すのですが、昔と違って職場環境は改善されており、特に要求するものがないと、「ステレオの次は電子レンジを要求しろ」と組合幹部に言われました。その局では電報一通配るのに、軽自動車に二人乗車せよという有様で、会社は働くところだと思って就職した私には、何とも不思議な光景でした。

昭和60年(1985年)、電電公社民営化。真藤恒社長の下、腐った電電体質を一刀両断改革していく様は、何とも胸のすく思いで、大いに歓迎しました。これまでの独占体質で「いかに仕事をしないようにするか」が染みついていた組織に、サービスと利益、つまりいかにお客様を満足させて会社を繁栄させるか、という競争原理が導入され、会社が活性化されていきます。

昭和63年(1988年)、分社化の始まり。私はNTTのコンピュータ部門に配属になりました。ビルは東京の神谷町にあったのですが、組織としてはそこは「本社」でした。しかしまもなく、コンピュータ部門は切り離され、NTTデータ通信(株)となりました。同じ時期に分社化されたテレホンカードを扱う会社「NTTテレカ」は、業績が好調で、ボーナスに色が付いているということで、同じNTTグループなのにうらやましいという目で見られていました。

バブル経済に乗ってNTTの人気も株も急上昇。東大生の就職先人気ランキングに、理系文系ともNTTが1位になるなど、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの会社でした。

平成4年(1992年)、私はNTTデータ通信(株)を退社し、石川県の山の奥で3年半過ごし、群馬県に戻ってきました。この間、バブル崩壊後、ものすごい勢いでNTTも変化していったようです。

<つづく>