下水から考える−風呂とはだか

このところ水不足が一転して大雨注意報多発となり、夏の渇水の危険はなくなったようです。
水不足から端を発して、排泄物の問題を考えてみました。大量の水を消費する水洗トイレに対して、個人的にはバイオガスプラントを建設することで解決しました。この思想を今後社会にどう広げていくのかが今後のテーマです。

今日は、水洗トイレと並ぶ、水の大量消費の根元である風呂について論じてみます。
5才を筆頭に3人の男児がいる我が家では、毎日子どもを風呂に入れるのが私の役目で、大変な労力とエネルギーとお湯を使います。
なぜ人間だけが風呂にはいるのか、否入らなければならないのでしょうか。
「地獄谷の猿も温泉につかっているではないか」というのは違います。あれは入らなくてもいいものが入りたいから入っているのであります。私はできれば風呂なんぞには入りたくない。時間も水ももったいないし、面倒くさい。しかし人間は風呂やシャワー等を必要としており、文明化と共にその頻度も上がってくる。それはなぜなのか。
それは人間が毛皮を付けていない、はだかの生き物であるからと確信しています。

入浴やシャワーで体を洗う必要性は、肌の新陳代謝で不要になった垢を落とすのが主な目的でしょう。では、毛皮のある哺乳類はその必要がないのでしょうか?生物である以上、新陳代謝がないはずはありません。ではどうしているのか。
私は、猟師の体験談を聞いてピンと来ました。彼らは毛皮の中に、微生物やダニを住まわして、彼らに垢を食べてもらっているようなのです。人間は毛皮がないので、それが不可能故、体を洗う必要になったと思うのです。
昔は土に近いところで暮らしていた人間も、土から離れるにつれて清潔度が増していく結果になったのではないでしょうか。
ではなぜ人間は毛皮を捨てはだかになったのか。この難問に真っ向から挑んでいるのが、島泰三著「はだかの起源」です。

はだかの起原―不適者は生きのびる

はだかの起原―不適者は生きのびる

これまで疑問だった人類の「裸化」に対し、説得力のある話を展開しているこの本に、大きな衝撃を受けました。ただその後、冷静になって考えてみると腑に落ちない点もいくつかありますが、これまでにあった「人間の裸化は水辺で進化したから」という「アクア説」などよりも、ずっと科学的な推論になっている点は評価できると思います。

しかし、はだかの起源が明らかになったところで、風呂の回数が減るわけでもなく、風呂の水問題は未解決のままです。しかし、全く検討していないわけではありません。
パーマカルチャーという考え方の中には、風呂の排水を温室の中に流して、その温度で野菜の苗を育てて、その後庭の池に流して魚を飼う、というような技術が紹介されており、オーストラリアやニュージーランドの方では実践している人がいますが、土地が必要であることは言うまでもありません。
せめて、残り湯を洗濯に使うことくらいは実践したいと思いやってみましたが、まず、バケツリレーは一週間で脱落します。次に考えるのがポンプを使うことですが、どうしても電動ポンプは買う気にならず、水道水の圧力を使う「水圧ポンプ」を使用してみたのですが、効率が悪く断念。足踏みのポンプがあればと思っているのですが、そういう製品は見つかっていないのが現状です。