しかし真の真の旬はさらに違うところにある

ふれあいの里ブログの紹介で、野菜の旬のことを書きました。気候の違う産地から持ってきた野菜はさておいて、この地で採れるものでも、ハウスを使ったり加温をしたりすることで旬をずらした収穫が可能なことを示し、路地野菜が本来の旬である、と説明しました。

しかし、本ブログでは、旬についてもう少し厳密に追求していきたいと思います。私は、わしズム6号で次のように書きました。

わしズム〈Vol.6〉

わしズム〈Vol.6〉

「旬をはずして種をまいた作物は、仮に芽が出たとしても虫に食われてしまう」
つまり、旬というのは常に収穫時期を意識して語られていますが、作る側からすれば「種をまくにあたっての旬」も当然存在しています。そして、その作物が勢いよく育たずに、虫に食われたり枯れたりしてしまうとしたら、それは「種をまく旬」をはずしていることになります。

皮肉っぽく言いますが、昔の農家と私は、種まきの旬をはずすことなく作物を育てています。なぜならば、昔の農家には「農薬」というものがなかった、また、私は農薬を使わないで作物を作っている、ということです。これでおわかりかと思いますが、本来の野菜の旬よりも多少早く(もしくは遅く)作ろうとした場合、本来なら種をまいても、虫に食われたりして満足に育たないところに、農薬を使うことによって、旬をずらしても作物を作ることが可能になる、ということなのです。現代ではこれを持って「農業技術」といいます。この可否についての判断は読者にゆだねます。

さて、話はこれで終わりません。もうひとつ突っ込みます。ここまで言及出来る人は農業関係者を含めそうそういませんので、これを読んでいる人は幸運といえるでしょう。

福岡正信という人がいます。うちのばあさんと同じ大正2年生まれで、まだ生きているはずです。昭和の(平成の?)花咲じいさんとも言われた人で、その筋では有名な方です。福岡さんの種まきは、ただ単にそこら辺に種をばらまいてしまうのです。畑を耕して、筋をつけて、種をまいて、水をやって・・・などということは一切しません。

私は先ほど偉そうに、「農薬は一切使わないで旬の種まきをする」と申しましたが、福岡さんの農法は種まきすらしないのです。正確には種をばらまくのですが、発芽は全く自然に任せるということですので、それこそ、これ以上の旬はないということになります。福岡さんはその農法をさして「無為自然」といいます。

うちの畑も、種まきをして管理もするのですが、忙しさにかまけて手入れを怠っていると、それこそ無為自然状態になっていることがあります。そんな中で、自然にこぼれた種が、翌年自然に芽を出して、立派な作物になっていることがあります。これが本来の畑の姿なのかわかりませんが、生業としての仕事にするには計画性のない自然任せなので、理解する人も少なく、当然広まってはいません。ただ、私は哲学的領域の中で理解していますし、畑の片隅でその実践も行っていますが、周りの人はただだらしない畑だとしか見ていません。

もうこの無為自然農法よりもさらに自然にするといったら、それは狩猟採集になってしまいますので、これは極めて原始的かつ根元的な農のあり方なのです。実際福岡さんは、野菜を出荷するというよりも、「そこにあるものを食べて生きていけばいい」、というインド哲学にも似た境地を語っておられます。しかし、これが最終的にこれ以上ないという「農」の世界の「旬」というものの姿なのです。

自然農法わら一本の革命

自然農法わら一本の革命